何日か宿泊した、海の見える町の宿。その宿の一角には和食のレストランが店舗を構えていて、宿泊客は朝食と夕食をそこでとるようになっている。電球色のダウンライトに包まれた空間は意外に明るく、朝も夜も心地の良い音量で親しみやすいジャズが流れていて、まるで街のなかのライブバーで食事をしているような、寛いだ気分になる。
宿での食事は旅の楽しみのひとつ。その食事をする場所で、もし人のぬくもりに出会うことができたなら、誰かの心がほぐれたり、誰かの旅がますます心躍るものになったりするだろう。
ある朝、近くのテーブルには、どちらかというと年配の女性客。一人旅のようだ。従業員の、こちらもどちらかというと年配の女性と楽しそうに談笑している。ふたりとも県内あちらこちら、食べ歩くのが好きなようで、会話が進むにつれ、どんどんお店の情報が重なっていく。民話の里で有名なあの町にある農家レストランには行かれましたか?そうそう、沿岸の大きな市にあるお店もいいですよ。そこは盛りがいいんです。行くまでに道を間違えてしまって、思いがけずいいドライブになりました。食いしん坊は、こんな会話に聞き耳をぴくぴくとたててしまう。
私が生まれ育った、そして今も暮らしている岩手県という場所は、あまりに広すぎるので、自分はその魅力に気付かなかったのか。それとも自分が好奇心を向ける範囲があまりに狭すぎて、それ以上の探求心を持たずに生きてきたのか。それが数年前から仕事柄あちこち歩くことが増えてきたこともあり、次に行く場所に対して俄然興味がわいてきた。地元のスーパーマーケットでは何を見つけることができるだろう?その土地の特産品にはどこで出会えるだろう?それからカフェや喫茶店はもちろん外せないし、図書館も訪ねてみたい。どんどん欲張りになる。だから、インターネットではなかなか見つからない情報や、実際にそこを知る人の生の声に出会うと、宝物を見つけたみたいなうきうきした気持ちになる。
ある朝、向こう側のテーブルには一見、ちょっとむすっとした表情の男性客がひとり。レストランの従業員の女性と一言二言、何か会話している。疲れたなあ、なんてつぶやいていても、その表情はちょっと明るい。食事を終えた男性がゆっくりと立ち上がる。従業員の女性は、男性の背中をとん、と押すように朗らかな声でいってらっしゃい、と言った。師走の朝はだんだんと冷え込んで、ぎゅっと背中を丸くしたくなるけれど、なにかほんのりとした嬉しさが灯るようなあたたかな朝だった。