以前、通勤していた時分には、日々鉄道の駅を利用していたものだったが、いまは暮らし方が変わって頻度とすれば月に数回ほどだろうか。春めいてきたある朝、これまでの最寄り駅とは違うその駅をしばらくぶりに利用することになった。きょろきょろしながらホームへ降りて、列車を待っていたところ、あら、と驚いたのは、聴きやすいトーンのゆっくりとした、穏やかなアナウンスが流れてきたからだった。駅での案内放送はこれまでも他で聞いてはいたが、最近のそれはたいがい自動音声で、せわしない(と、自分で思い込む)日々を過ごしていた耳にはいつの間にか当たり前となり、気に留めぬようになっていたのかもしれない。
人の声というものは、いろいろな表情を持つ。低く高く。あるいは早口で詰め込んだり、ゆったりと聴き取りやすく。喜びに弾んだり、ひそひそと潜めたり。声だけでなく、直接相手と接すれば、ちょっとした呼吸、間、感情の動き、そういうものが自然と伝わってくる。それを感じ取りながら確認することができるから、やっぱり、ホッとするのだ。
ここ最近、ご無沙汰していた身内や気の置けない友人たち、仕事仲間達と、おいしいものが並ぶテーブルを囲む機会が続いている(これはとてもしあわせなこと)。その時やはり思うのは、その場のにぎやかさやあちらこちらに向かっていく会話や笑い声というものは、そこに集う人の力が自然と醸し出す空気感や感情の結露なのだろうな、ということだ。
件の駅の2階には、以前はなかったシンプルなカフェが出来ていて、ガラス扉を開けてみた。ぽかぽか陽気の午前中に歩き回った喉に、素朴な甘さの効いたレモンソーダがぐいぐいと染み渡る。蜂蜜を使ったシロップなのだろうか、濃くて懐かしい味わい。陽のたっぷり入る窓からは、その日の朝にとことこと降りてきた坂道が見える。カウンター越しにお店のかたと二言、三言交わす。温かな人の気配があるところには、穏やかな声がよく似合う。