いつの間に考えるのか、園長はひらめきの引き出しの中をたくさんのアイディアでいっぱいにしている。そして少しずつ引き出してはそれらを即座に形にしていく。この日は頂き物の角ばった単管パイプを、カフェの床に敷き詰めるという大掛かりな工事(?)。寸法も程よく、なんやかんやいろいろな機材もあるので、長さなどは必要に応じてどんなふうにでも調整ができる。拡大版大人の図画工作の時間、といった風で、あちこち楽しそうに手を入れるのを見ていると、こういう作業が本当に好きなのだなあ、と思う。
私と言えばその手のことは子供の時分からまるで苦手で、買ってもらっていた雑誌の「ふろく」の工作キットもほとんど開封しないままだった。生来のめんどくさがり屋、飽きっぽさという性質が如実に現れる分野だからか。かといって、自由に作ってみてと言われても、これがまた何をどうやって表現したものか思い悩むわけで、結果この分野には苦手意識を持っていた。
13歳頃からの数年は、それまでの伸び伸びとした子供時代がそろそろ終焉に近づき、自分の内面に目が行くようになった。どんな人間で何が好きなのだろう、何をしたいのだろう、何のためにするのだろう、そんなことをぐるぐると考えて、キラキラして見える同級生たちと冴えない自分とを比べて苦しくなったりもした。進学したら自分を変えると決めたのはこの頃だった。
進学先が共学ではなかったのが自分には合っていたようで、個性的な友人たちにも恵まれ刺激を受け、苦手意識を持たず何にでも前向きに取り組むようになった。自分の中には、表現する分野は苦手というこれまでのベースがある。でもそれは本当にそうなのか?自分はこう表現したい、自分だったらこうする、そんな気持ちでやってみる過程がとにかく新鮮で、ある日選ばれて掲示されたデッサン画の中に自分の作品があったのには心底驚いた。自分の内面を外の世界に押し出す楽しさ、観てもらえる楽しさ、認めてもらえる楽しさを10代半ばの時間の中でたっぷりと謳歌することができたように思う。それは少なからずその後の人生にも佳い影響を及ぼしているようだ。
園長もまた、そんな楽しさを現在進行形で謳歌している。ほぼ隙間なく敷き詰められた単管パイプの床には、使用品ならではの、こぼれ落ちた様々な色合いの塗料のしみが無数について広がり、さながら美術室の床を思わせた。あのむっとする油絵の具のにおい。苦手でも、わからなくても、わからぬなりに一歩踏み出してみればいろんな色が無数に広がって、それはいつでも楽しむことができる。