正月の二日というのは、朝から、もしくは前日からどことなくソワソワする日。というのも、母方の親戚が実家に大集合する一日だったから。もともと、冠婚葬祭の機会でなくても折に触れてみんなが集まる家だったが、お正月には普段そんなに顔を見せない義理の伯父たちも揃うので、子供から見ればどことなく緊張感を感じて、いつもよりもおすましする気分になるのだった(それは最初だけで、慣れればいつもの通り)。
料理などは各家庭の持ち寄り式。人数が人数だから、座卓が4台ほどは並んだだろうか。和風あり洋風あり、普段自分の家の食卓にはのぼらないようなおしゃれな料理の大皿が、所狭しと卓上に並ぶのだった。いまと違って、お店でオードブルを購入するという時代ではなかったのだろう。座敷では、食べたり飲んだり喋ったりの合間に、叔父のギターに合わせて母やおばたちが歌うのが恒例(合唱経験者が多く、腕に覚えがある)。昔の8ミリビデオを上映して盛り上がった年もあった。そういった出し物(?)が一段落すると、いよいよお年玉をありがたく拝領する、子供たちにとっては一大セレモニーの時間。子供たちは並んで列になる。包まれた金額よりも、一人ひとり名前を呼ばれてお年玉を受け取れることが嬉しく誇らしかった。あの人数にいきわたるように金額を調整して、兄弟姉妹たちで出し合って段取りしていた親たちには感謝である。
会も後半に入ってくると、おじたちはどっかりと座って飲み物も進み、おばたちは狭い台所のテーブルの周りに集まり、子供たちはその間を行ったり来たり走り回る。子供心には、なぜ同じ部屋で過ごさないのだろうと疑問に思ったが、それは自分が大人になってから合点がいった。昔からの習慣には今でもすこし憤慨したい気持ちにもなるが、母やおばたちも井戸端会議よろしく、手を動かすというよりも、かいがいしく動く祖母を傍目におしゃべりを心ゆくまで楽しんでいる様子だったので、あれはあれで貴重な時間だったかもしれない。
静かな正月二日を過ごすようになって、どのくらい経つだろうか。各家庭の子供たちも巣立ち、その子たちが自分の子を連れて集まる場所はそれぞれの実家になった。そんな時の流れを見計らって、ある時から祖母の家に盛大に集まる習慣はなくなった。それを聞いて当時、帰る場所がなくなったような寂しい気持ちになり、なぜ新年会をやめるのか親に抗議したものだが、いまになれば親世代の気持ちや判断も理解できる。時が過ぎれば自分の立場や役割も変わってゆく。親たちがしてくれたことを大切にしながら、自分たちは自分たちでできることをしてゆく。そのことで周りのみんなを笑顔にできたらいい。そんなことを考えつつ、少しばかりの料理を拵える年末年始である。